現在では、様々な宗教が存在し日常生活にも混在しています。
ここでは、代表的な宗教間での違いを説明します。
代表的な宗教として、仏教・神道・キリスト教を比較し歴史との関わり合いや文明との関わり合いを考えてみます。

◇日本の仏教とは
仏教は、多数の宗派が存在し一言ではなかなか表現できません。
本来、「忌」や「喪」の概念は、古代精霊信仰から来ているようです。
現在の仏教とは、純粋にインドや中国などから伝来した物とは、細部が異なるようです。
僧侶の着る「袈裟」などは、日本ではとても豪華な物です。
しかし本来は、ボロ布を片肩からかけるだけの貧相な物です。
テレビなどで、東南アジアやインドの特集番組などでよく見かけることがありますが、本来「袈裟」とは、あれを指すようです。
日本での「袈裟」は階級(権力)の証である意味も持ちあわせていました。
仏教は百済より伝来され、当時の日本では「仏教=大陸文化」という概念もあり、権力抗争の道具に利用された時期もあります。
僧尼の管理を行うために、僧正・僧都・法頭を任命し、朝廷が仏教統制機関を設置しています。

 日本は、もともと戒律の存在しない神道を中心とした国家でした。
厳密にいえば、祭祀の一族が天皇家であったと言うことです。 これは、邪馬台国の卑弥呼(倭王)と似た様な概念の上での王ですが、基本的に違うのは世襲制であると言うことです。
世襲制は本来、中国の帝の概念であり、日本にこの概念をもたらしたのは紛れもなく大和朝廷であったと考えられます。

−仏教の伝来と背景−
 日本に仏教が伝来したのは、百済の聖明王より欽明天皇に献上されたのが初めてとされています。
聖徳太子の時代には、統治国家としての戒律を学ぶため、仏教を取り入れることになりました。
当時の仏教とは、仏教=大陸文化と考えられており、宗教と同時に多大な学問・政治学などを学ぶことになります。
そして、天皇家以外の世襲制を廃止しようという考えで出来たのが、憲法十七条・冠位十二階の制定でした。
冠位十二階の特徴は、それまで氏族に対して位えお授けていたものを、個人単位での階位の授与です。
また、憲法十七条は、憲法というより、むしろ従事者に対する心得のようなものでした。
しかし、志半ばで 聖徳太子は他界してしまいます。
実際には、「大化改新」で実現されることになります。
この改革の特徴は改革派のみならず守旧派も取り込む必要があり、朝廷では仏教のみならず神も尊むべきものとし、神仏両立の政策をした事が特徴です。
この隔てのない政策が両宗教の融合に繋がると考えられます。

−宗派の確立−
 後に、 空海と最澄により密教(仏教)が広く国内に布教されました。
現在に至る宗教としての仏教は、空海・最澄を中心とする布教であるものと考えられます。 それ以前の僧尼は、主に百済人・高句麗人だったと言われています。
空海・最澄による仏教布教の特徴は、宗派の存在です。
空海・最澄の持ち込んだ仏教とは密教でした。 密教とは、隔離された環境の中で修行することにより、仏教の教えを極めることが出来ると考えられており、まさに、その環境ごとに仏教の教えに対する解釈が変化していくことが特徴です。 現在にも多数の宗派が存在しますが、その元になった人物こそ、この2人になります。

−忌・喪の考え方−
 仏教では、死に対し「忌」「喪」の考え方があります。 これは、死を穢れと考える故、江戸時代には、死人の出た家は、忌中は外出することも禁じられていたようです。
この「穢れ(けがれ)」に対しての考え方ですが、宗教として「死」を文字通り「けがれたもの」と考えていたのでしょうか。
実際に浄土真宗では、「死」は穢れではなく、尊いものだと教え、清め塩は使用しません。
 本来、人間も含めた動物には本能的に「死に対しての恐怖(畏怖)」が存在します。 「穢れ」とは、この「死に対しての恐怖心」を指しているのではないでしょうか。
上文にある「死人の出た家では、忌中は外出することも禁じられていたようです。 」 の部分は、まるで伝染するかのような意味を持っていると考えると、「死に対しての恐怖心や悲しみ」が伝染すると置き換えられます。

−塩の宗教的な意味−
 さて、塩にはどのような意味がもたらされてきたのでしょうか?
塩は、生存維持に欠かせない物質であり、これに変わる物質はないと考えられます。
また、食料やミイラの腐敗を防ぎ、その状態を永続させると言う性質を持ちます。
このため、塩は古くから世界中で清浄のシンボルであり呪術的、宗教的にも意味を持たされてきました。
『旧約聖書』においても、神と人間、人間と人間の間の塩の結合が両者の誓いの不変を意味し、そこから「塩の契約」の考え方が生まれます。
(民数記) ギリシャでも、この塩の誓いはを破ることは不実とされていました。
日本でも塩を粗末にすると目がつぶれるなどと言われ、昔から貴重かつ神聖な物として扱われてきました。
現在でも、葬儀の際の清め塩のほかに、お店などで入口に縁起を担ぎ盛り塩をする習わしがあります。

−古代の葬送儀礼−
 古代日本では、精霊信仰がありました。 これは現在でも「神道」として残っています。
この古代の宗教観の中に モガリ(殯)というものが存在しました。
現存する史料(日本書紀)の最古のものには、欽明天皇崩御の時に 殯(モガリ)の儀を行った事が記載されています。
欽明天皇崩御後に、殯宮(喪屋)が建設され、その庭で誄(しのびごと)を述べたり諡号をおくったり皇統譜を読み上げたりしたようです。
実に四ヶ月間、殯が営まれたと記されています。
しかし、欽明天皇といえば、百済の王より仏教を伝来された張本人であり、この殯(モガリ)の記述がどのような意味を持つのかはわかりません。
この当時(欽明天皇崩御時)には、仏教が伝来しており、殯(モガリ)が旧来と同様の形式で執り行われたのか、仏教に影響された形式で執り行われたのかは不明です。
しかし、読経したという記述はないようです。

 そもそも、殯(モガリ)というのは、人が死んだ後に埋葬されるまでの一定期間、殯宮(喪屋)を造り、柩を安置し遺族・近親者が死者の蘇生を願い、故人の霊を慰める習慣です。
この習慣は、日本に古くから存在していたことは、「魏志倭人伝」から確認できます。 中国の喪葬習俗にも「殯」という儀式があり、日本ではそれを見習い「モガリ」を「殯」と表記するようになったと言われています。
 古代、殯(モガリ)とは基本的に鎮魂、転生を主に考えられているので現在の葬祭の概念とは少し違いますが、これが古代日本における葬祭観(宗教観)であることは間違いないようです。
「魏志倭人伝」で記載があるように、この葬祭儀礼は、既に弥生時代には存在していたと言われています。

 また、6世紀あたりでは、葬祭儀礼を「殯の儀」とし、忌中・喪中に当たる期間を「殯」としていたようです。
崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺された時の事が、「隋書倭国伝」に「貴人は3年間、殯をする」と記されています。
しかし、崇峻天皇は時の権力者である蘇我馬子に暗殺されており、実際には殯の儀は行われずに即日埋葬されたとみられています。
この3年間という期間が、後に「忌」・「喪」などに繋がるのではと、考えられます。
現在では、「安置→葬祭(通夜・葬儀)→火葬(埋葬)→法要→忌明け」のように儀式ごとに区切られていますが、当時は埋葬までの期間を指し、そして埋葬によって「殯」は完結してしまうと言う部分が大きく違います。 どちらかというと、やはり神道に近いようです。

−儀礼的な忌・喪の伝承−
  現在では、「忌」・「喪」などは、故人の死と向き合い悲しみを克服するためにとても重要な猶予期間であり、本来、「忌」・「喪」は血の濃さ(親等)により、期間が違います。
現在に通じる喪・忌の概念は、江戸時代から明治時代に移行するときに、武家の慣習をそのまま制度として政府が組み込んだことに起因するようです。
現在では、ほぼ一律に儀式的な側面のみが残っています。
これが、忌明けの挨拶状(香典返しも含む)や喪中はがきに当たるかと思います。
江戸時代にも、庶民層で葬祭等はあったとは思いますが、これほど形式的なものがあっとは、考えにくいと思います。

−宗派の違い−
現在、日本では様々な宗派があります。
日蓮宗では、極楽浄土を否定し、現世こそが浄土であると説いています。
また、浄土真宗では、死を穢れとは考えないので「お清め」の概念が存在しません。
これらの異なる考えをもつ仏教は、当時の時代背景を反映し派生したものと考えられます。
同じ仏教でも宗派により、死に対する考え方も大きく異なります。 葬儀の際には、菩提寺がある場合、宗派の確認は怠らないようにしましょう。


◇神道とは
 日本に古代からある多神信仰です。
山には山の神が、川には川の神が、海には海の神がというように万物に神が宿るという考え方です。
現在、日本国内には様々な「祭り」があります。
これが古代より伝わる神道の片鱗でもあります。

−神道の特徴と歴史−
 本来、この宗教観は特定の神を信仰しませんので、それぞれに様々な形態で自由な形式の儀式(祭り)が行われていることが特徴です。
これは、奈良・平安時代の国家統治の概念にも起因します。
五世紀〜六世紀にかけて国造制という統治制度がありました。
国造は大和朝廷(大和政権)により設置された世襲制の地方官でした。
大和朝廷に服従した各地の有力首長層を任命し任務を遂行させる制度ですが、七世紀前後にはほぼ全国に設置されました。
在地首長には、裁判権・刑罰権・祭祀権が付与され人民を統治していました。
この中で注目されるのは、在地首長に祭祀権の付与があると言う事です。
祭祀権の付与があるという事は、それぞれの地方で独自の神を祀り祭祀を行うということです。
現在、地方によって特色のある神が祀られているのはこの様な背景も大きな要因と考えられます。

 神は氏神・地方神などさまざまな分類がされています。
天照大御神は、最初は地方神(太陽神)とされていましたが、天武天皇以降伊勢神宮に祀られて天皇家の氏神とされたと言われています。
ちなみに、日本書紀・古事記は、この後の8世紀に編纂されているので、氏神としての正当性を冒頭の神話に求めたのではと考えられます。

 また、神は年に一度、出雲に集まり議を行うとされており、その時期を神無月(陰暦10月)と呼ばれています。 またこの時期、出雲地方では逆に神有月(陰暦10月)とされています。
全国的には、神が不在期になりますが、出雲だけは、神が集まる時期となるためです。
ちなみに11月は、 神楽月・神帰月と言われています。

−神道での忌・喪の概念−

 神道でもやはり仏教と同様に、死を穢れと考えます。
よって、「忌」や「喪」の概念は共有するようです。

−通夜振る舞い−
  現在では通夜の際に、お清めと称し「通夜振る舞い」をします。
料理などを出し弔問客をもてなす行為です。 これは、神道・仏教ともに行われます。
しかし、以前は違いました。 以前には、この習慣はありませんでしたが、神道の葬儀に、式後、神前に供えた饌(食べ物など)を参列者全員で食べる直会(なおらい)と言う儀式がありました。
これが、後に通夜振る舞いになったとも言われています。
神道では、生臭物を禁じられていません。 しかし、死者の出た家で煮炊きした物を食す事は、禁じられていました。
よって、神道では、近隣の人たちが食べ物を持ち寄ったと言われています。
また、仏教は神道のこの習慣(慣習)にならい同様に通夜振る舞いが行われるようになったと言われています。
ただ、仏教では忌中は生臭物を食べることは禁じられていました。 現在は、仏式の葬儀でも寿司など生ものも一緒に食されていますので、初七日明けの精進落としが必要なのか少し疑問ですが、これもまた、儀式的な様式のみが伝承されています。

−死後の世界観の違い−
 仏教と神道で違うことは、神道では、死後、家の守り神(氏神)になると言うことです。
現世で人間として生き、そして、死ぬことにより家を守る神になるのです。
仏教では、死後に極楽浄土に行きますが、神道では、黄泉の国とは穢れた世界とされていることが大きく起因していると思われます。
古代精霊信仰では、葬祭に対し「鎮魂と転生」を求めました。 死者の霊を鎮魂させ黄泉の国に行くことを防ぎ、転生の願(祈り)により新たな肉体に魂が宿り着くと考えられていました。
古代精霊信仰では、人間は、体(肉体)と心(霊魂)から成り立っていたと考えられていましたので、肉体が滅んでも、霊魂は新たな肉体を見つけそこに宿り、生命が誕生すると考えられていました。
現在では、「鎮魂」の後には氏神になると考えられているのが神道の特色です。
 たとえば、古代に存在した「菅原道真」は死後、学問の神様(地方神)として現在でも祀られています。
死後、地方神として奉られる事は、それ程多い事例ではないと考えられますが、それだけの影響力をもった人は、氏神にとどまらず、象徴として地方神にもなったと言うことであろうと考えられます。
これに対し、仏教は、一神教信仰の宗教ですので、「神」は釈迦のみになります。
死後、故人は仏弟子になると言われています。
ちなみに、生きている間にも出家し、俗世と縁を切ることにより仏弟子になることが出来ます。
現在では、仏教の中に身を置く人(僧侶等)以外はあまり見られないようです。
この考え方は神道とは違い、むしろ同じ一神信仰のキリスト教と同じ考え方になります。

−神道の歴史と精霊信仰−
 神道の歴史は古く、教祖がいないため起源の特定はされていません。
一応古代史的には、祭祀の王としての天皇家の存在がありますが、ここら辺は、日本書紀・古事記等の史書に基づく歴史的見解です。 下文にて少し触れますが、神道の儀式的要素はそれよりも遙か太古より存在していたようです。
古くは、中国の史書である「三国志」の倭人条に倭国の儀礼様式についての記述があります。
それによると、倭人は儀礼として「搏手(はくしゅ)」をすると記述されています。
搏手とは、神道につかわれる「柏手(かしわで)」であることは、間違いないようです。
さらに、三国志ではこの儀礼は古代中国(周)の儀礼であり中国(当時は魏)では、すでに廃礼とされていると付け加えられています。
また、周に倭国(倭人)が朝貢したという記録もあります。
つまり、紀元前より日本(倭国)は、海路を通じて中国と交流があったとされているのです。
そのときに、中国の儀礼様式を学んだとされています。 つまり日本では、儀礼様式として柏手をうつ事は、紀元前から行われていたことになります。
そして、故人を神として祭る様な宗教的な意味を何時頃から持つようになるかは不明ですが、かなり古代より存在していたことが理解できます。
それと、古代史では、時代の節目を考察する場合、宗教的儀式に高い関心があることも事実です。

  とくに、象徴的なのは、縄文時代から弥生時代と、弥生時代から古墳時代です。
縄文時代から弥生時代の変化は、まさに稲作農業の伝来です。
このことにより、生活様式が一変していきます。 生活様式が変化すると自然に宗教観も変化します。 縄文時代にどのような宗教観があったのかは不明ですが、弥生時代には、確実に宗教観が存在しています。 日本の場合、これが密接に稲作農業と関わり合っているという事です。 日本人の米(こめ)信仰は実に長い歴史があるようです。
農業というものは、天候に大きく左右されます。 実はこれが神信仰(精霊信仰)と大きく関わりをもつのです。

−神道の儀礼・様式の側面−
 神道は、祭具に「鏡」を使用したり、儀礼に「柏手を打つ」行為など、古代精霊信仰を受け継ぐものも多数確認できます。
神道の祭具に使われる「鏡」などは、弥生時代末期から古墳時代にかけての遺跡などからも多数出土しており、古代から重要な祭具であったことがうかがい知れます。
銅鏡は当時「魏」からの下賜品として日本に持ち込まれています。
また、「柏手」に至っては、中国の古代王朝である周代に使われていた儀礼様式であったと確認されています。 周とは、紀元前一世紀前後にあった中国の古代王朝です。
 仏教も同様ですが、日本の宗教・文化等は実に多く中国の影響を受けていることが理解できます。
神道の名称の「道」は、中国の道教の「道」に起因しているとの説もあり、当時の文化を比較すればなるほど納得できる事ではないでしょうか。
当時の中国とは、東アジアにおいては、突出した文明と歴史をもっていた国であり、そこから多くの文化や学問などを学ぼうと言うことは自然なことでもあります。

−古代から現代の言語の歴史比較−
  古代史の史料などは、ほぼ中国のものしか存在していないため、日本列島の当時の様子を確認するには、遺跡以外では、中国からの視点(史書)でのみ確認が出来るということです。
中国の漢字文化(漢音)から日本独自の口語である和音を組み合わせ現在の日本語が完成されています。
日本語は口語が先で、書式が後(漢文から日本語へ変化してきた)と考えられるため、有史以来、書式は変化してきました。
しかし、古代漢文の漢字表現も現在に通ずるものも多数存在します。
 608年に聖徳太子が遣隋使に持たせた国書に「東の天皇、(つつし)みて西の皇帝に(もう)す」の一節がありますが、「敬白(けいはく)」は現在でも慣用文の末語(結び言葉)として使用されています。
末語(結び言葉)としては、「敬具」が一般的に使用されており、他にも「謹言」「謹白」「草々」「かしこ」などがあります。
慣用文の表現には難しく現在では使用されていないようなものも多数存在しますが、儀礼として考えた場合には、変化を許容するものと、伝承していきたいものとの二面が存在します。
 文章の構成に関しては、現在は文中に句読点を入れて構成する事が基本であり、そのように教育も受けています。
しかし、儀礼上の挨拶状には基本的には句読点を含みません。
儀礼上の挨拶状は慣用文で文章が構成されているため句読点は用いません。
慣用文に句読点を入れる事は、基本的に相手を見下す行為であり失礼であると言われていましたが、現在では、文章が長くなった場合に句読点で短く区切りながら構成することもあります。
基本である以上例外もあるわけで自然に儀礼の習慣(慣習)も変化しています。

-言語と宗教観と文明-
 日本語は現在でも変化の一途を辿っています。 これを嘆かわしく思う人も多数いることでしょうが、実はこれこそが日本語であるようにも感じます。
明治維新後、日本は素早く西欧文化を取り入れました。 他のアジア諸国では実現できなかった事が、何故、日本でのみ可能だったのでしょうか?
これは、言語に起因する物と宗教観(文明・文化)に起因するものに考えられている事が多分にあります。
日本語の文字は、漢字とカナ(かな)から成り立っています。
漢字は表形文字でありカナは表音文字です。
意味のある物は漢字で表し、意味のない物はカナで表す事が可能になります。
意味と音を表現する文字を持つ文化は世界的でも希です。 しかし、この表現力をもつ事により他の言語と異なる思考が発達するのです。
 日本では、漢文が日本に入り込みはしましたが、それを口語とうまく合わせるように「かな(カナ)」を発明しました。 また漢字の読みも音読み(漢音)訓読み(和音)と二種類の音を備えました。
これは非常に大きく現在の日本にも大きく貢献しています。
朝鮮半島でも「ハングル」が発明されています。 しかし当時の朝廷は、これを否定し導入を拒み続けました。
日本語は明治時代には、既に言語体系が確立されており、欧米の先進的な概念を表現する事に十分対応できていました。
しかし、当時の清国(中国)の漢文では、すでにそれを表現する事が不可能な状態であったと言われています。
過去を重んじる儒教下にあった清国は、すでに先端技術を表現する言語を有していなかったのです。
清国(中国)の言語は、漢字のみになります。 漢字とは表形文字であり漢字そのものが意味を持ちます。
つまり、未知の情報の伝達には不利だったのです。
台湾の統治・朝鮮の併合で国語として日本語を普及させようとした背景には、この言語体系の問題があった事が重要になります。
また、現在韓国で普及しているハングルも当時日本政府が検討した結果、ハングルは体系化されておらず、言語としては不十分な物であると結論付けられました。
しかし、日本政府は日本人言語学者にハングルの体系化を研究させて見事に言語として確立する事ができました。
そして日本統治時代、日本語と平行してハングルの教育にも力をいれました。 ハングル文字は、表音文字ですので、比較的制限なく情報の伝達が可能になります。
日本語は世界でも難解な言語の一つとされています。 しかし、その表現力は世界共通語と言われる英語を凌ぐ程の能力を秘めています。
日本人が新しい物・概念に即座に対応できる背景に言語の恩恵があることを忘れてはいけません。
そして、新しい思考・概念が確立する都度、日本語は変化を続けていくことになるでしょう。

 日本は明治維新後、数十年で近代化を果たし、世界の列強の一角を担うまでになりました。
古来日本では、大陸文化の良い物は率先して取り入れてきました。 そして、それを自身で使いこなせるように変化させ現在に至ります。

日本に仏教が伝来した事は当時の国内では大事件でした。 しかし、神仏合祀という宗教的には考えられないような政策をとりました。
これは、基本的に明治時代の法律で神仏分離をされるまで継続しました。

 近年、世界の七大文明を発表した学者がいました。
その中で、唯一、日本だけが日本文明であるとしています。
他の文明は、西欧文明、イスラム文明、ラテンアメリカ文明、中華文明など地域に依存する文明でした。
日本人が普通に考えると、日本は中華文明の衛星文明と言われても多分納得してしまいます。
しかし、日本は独自の宗教観と言語を持ち明らかに中華文明とは異なるとの事でした。
 明治維新後の近代化の過程で西欧文化を取り入れた日本を、当時の西欧は改宗と考えていました。
しかし、近代化を果たした日本は西欧とは異なる国家と成り上がりました。
また、台湾・朝鮮の統治は、欧米の保有した東南アジアの植民地とも異なりました。
これは、戦後の近代化を見れば一目瞭然でした。
戦後、アジアで近代化を果たせた未開発国家は、台湾と韓国のみでした。
日本人は、和を重んじて皆が文化的な生活を身につけ独立することこそが、日本の国益であると考えられていたことに起因します。

−日本人の宗教観と神の概念−
  そもそも、日本人の考える「神の概念」とは何かと考えた場合、どのような概念が成立するのでしょうか。
神とは、表裏一体であり、「天より見守る存在」だけでは、誰も神を意識しません。 しかし「畏怖(恐怖・驚異)」が存在することにより神が存在することになります。
人間は、自分で管理や理解ができないものに神の存在を感じると言う事です。
たとえば、天候・天災などが「畏怖」にあたります。 天候・天災は人間の力で管理が出来ません。
すなわち、これを管理することが出来るのは「神」であると考えるのです。
また、自然こそが「神」であり、それが自然信仰(精霊信仰)であるとされます。
この精霊信仰は実は、日本以外でも島国に多く見られる事が特徴のようです。

−宗教と政治−
 弥生時代末期、倭王卑弥呼はシャーマンとして王の座に君臨しました。
大和朝廷では、天皇家は祭祀の一族であると定義し朝廷の正当性を定義しています。
後に仏教の伝来により、その側面は大きく薄らぎます。
近代では、明治政府が強力に政治に介入させたために、日本人はもとより世界的に大きく誤解が生じたことも事実です。
体系的に天皇陛下を国家元首に定めた場合、神道が国教と定められることはそれほどおかしいことではありませんが、何でも宗教的要因に結びつけてしまった事が神道不信に繋がってしまったのだろうと考えられます。

現在では、あまり意識されずに地域ごとに神社は存在します。
伊勢神宮・出雲大社などは有名な観光地となり、京都・奈良の仏閣なども同様に観光地化しています。
普段は意識しない存在ですが、考えると宗教とは実に奥が深く、同時に日本の歴史も感慨深く感じられます。

◇キリスト教とは
キリスト教では、仏教と同様に様々な宗派があるようです。
大きく分けると、プロテスタントとカトリックに分けられます。
プロテスタントでは、基本的に聖書こそが全てと言う考え方があり、それ以外は認めないようです。
対してカトリックは、様々な儀式・様式などを尊重するようです。
仏教・神道と大きく違うところは、「死」を汚れと考えないところです。
キリスト教では、死後、「主のみもとに召される」と言う考え方ですので、むしろ祝福される事のようです。
ですから、基本的に忌・喪の概念は存在しません。
外来宗教として、仏教などと比較し日が浅いため、キリスト教では日本固有の文化との融合はあまり認められません。
基本的にキリスト教では、忌明けも 喪中も存在しませんので概念的には、喪中ハガキもないのが本来です。
しかし、「忌明けの香典返し」や「喪中ハガキ」などは、宗教を問ない日本固有の習慣(風習)でありこれに沿った形での儀礼を行う人もいるようです。
よって、キリスト教では、命日より1ヶ月後の「追悼ミサ(カトリック)」・「祈念式(プロテスタント)」 にあわせて香典返しをするケースがあるようです。
喪中ハガキも習慣化していますので同様に発送するケースが多いようです。

−伝来時の弾圧−
 キリスト教は、伝来当時より日本国内で様々な宗教弾圧をうけた歴史をもちます。
とくに江戸時代には、キリシタン狩りが断行され多くの人々が命を落としました。 また海外へ逃れた人々も多数存在します。
仏教伝来の時代には、仏教=大陸文化と受け止めましたが、キリスト教伝来時には、イコールとしては受け止められませんでした。
西洋文化は欲しいが、宗教の来入は拒否するというのが基本的な姿勢であったようです。
この姿勢が、後に鎖国へと繋がります。

−布教と西洋諸国の侵略−
 これは、キリスト教の布教と西洋諸国の侵略意図の関連が大きく起因していると考えられます。
西洋諸国は、発展途上国・未開発国に対して文明の伝播を行う義務があると考え、他の文明を否定的に考えていたことに起因します。
当時、スペインとポルトガルは世界を二分に分けて領土の棲み分けをしていました。
しかし、当時日本に布教に訪れた宣教師は、日本の識字率の高さに驚愕したと言われています。
それと同時に特定の神の信仰とそれ以外の神の存在を否定するキリスト教は、日本人の宗教観とは異なり、それ程浸透しませんでした。
この後、日本以外のアジアは西洋の植民地となっていきます。
当時の西洋諸国は、政教合致の国家であり、純粋に宗教のみの布教に心がけていた訳ではないと言うことです。
西洋のこの政策が変更されるのは、イギリスの産業革命以降になります。
産業革命以降、重商業主義になり植民地化が強化していきます。 それ以前の植民地は教育も伴う同化政策であり単純に貿易のみと言うわけではありませんでした。
産業革命以後は、宗主国と従属国の関係として独占的な支配がより濃くなります。 これは世界恐慌以降、ブロック経済に発展します。
明治期の植民地政策は、イギリス式重商業政策とフランス式同化政策の2種類の政策に分けられていました。

−貿易と鎖国−
 日本では、江戸時代初期、徳川家康の主導による朱印船貿易を行っていました。
これは、貿易自体を国家が保証する旨の国書を携えた者のみが貿易の権利を有するというもので、東南アジア諸国にとっても信頼できる制度として受け取られ貿易は隆盛をほこりました。 特に当時の日本の産出する銅は、世界一の精度(純度)を誇っており、日本と欧州は東南アジア貿易で競合していましたが、全てにおいて日本が優位性を保っていました。
この時代には、イギリス式の植民地政策は存在せず、同化政策のもとに植民地支配の基礎を構築していました。 しかし、それには日本の朱印船貿易は非常にやっかいな存在でした。
日本の朱印船貿易の特徴は、まさに現在の貿易に通じるような形態がとられていました。
日本人は、貿易相手国に事務所を開設しそこで日頃から買い付けを行いストックをして、貿易船が来るたびにその荷を積み込むというような事をしていました。
西洋の形態は、まず現地に教会を造ります。 そしてそこに大砲などを設置し軍人を常駐させ、布教を行いながら貿易をしていました。
結局、西洋式の現地進出には、コストが掛かる上に、対応が鈍く、全てにおいて日本人に劣っていたと言われています。
江戸初期の当時、東南アジアに日本人村が多数存在したのは、決してキリシタンの海外逃亡のみが原因ではなかったのです。
これが、鎖国により一変してしまうのです。
一説には、鎖国はオランダによる発案であったと言われています。 キリシタンを取り締まるには、海外との交流を断つべきだと進言したと言われています。 これにより対日貿易の独占と東南アジア貿易からの日本の排除が可能となりオランダにとっても有益であったと言われています。

−キリスト教排除の背景−
 鎖国にまで踏み切ったキリシタンの排除とは?
当時、キリスト教は神の元に平等であると考えられていたので、専制政治を行う幕府としては、非常に都合の悪いものであったと考えられていたようです。
 現在日本では、洗礼を受けている人以外にも、キリスト教は認知され自然な形で共存しています。
また、挙式の際に外人の牧師(司式)が重宝がられている現状を見ると、まだまだ、外来宗教であるという意識が強いようです。

−宗教との関わり−
 日本の宗教観は節操がないと言われることがしばしばあります。
その理由が、特定の宗教を信仰せずに、それぞれのいいとこ取りをしていると言うことのようです。
たとえば、一般的な一生の宗教との関わりを書いてみます。

一生の間には、お宮参り(神道) →七五三(神道)→結婚(キリスト教・神道)→死亡(仏教)

一年の間には、クリスマス(キリスト教)→年越しの除夜の鐘(仏教)→初詣(神道・仏教)

他にも、厄除け・お祓い等(神道)などもあります。
こうしてみると、実は、日本人は世界中で一番信仰心(宗教心)があるのかな?と不思議に感じました。
分け隔てなく受け入れられることも、宗教観としては、悪くないと感じます。




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